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四季の移り変わりを感じる花、風景などを撮影した写真をお届けしたいと思います。


by hharu131
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会津若松2日目

 旅行2日目(6月29日)、この日は駅まで30分ほど歩き、レンタカーを借りて移動しました。
 最初に向ったのは『会津藩校日新館』、江戸時代全国三百藩校の中でも規模内容とも隋一と謳われました。
広さは東西226メートル、南北116メートル、面積8千坪、建物1500坪ありました。
戊辰戦争で消失してしまいましたが、昭和62年に市内郊外に完全復元されました。
展示内容も上手く再現し、当時の様子を窺い知ることが出来ます。
 次に向ったのが猪苗代町にある『野口英世記念館』、ここには生家もあり、5年前会津若松にある『旧会陽医院』を訪れたこともあって、是非一度訪れたいと思っていました。
野口英世が幼少の頃負ったハンデを背負いながらも努力をして世界的な医学者となったことはあまりにも有名ですが、今回はその母親のシカさんの生き方があってこそ英世があったのだと感じました。
生家には火傷を負った囲炉裏の他、上京するとき柱に刻んだ決意文「志を得ざれば 再び 此地を踏まず」も残っています。記念館2階の研究室で迎えてくれる野口博士ロボットも精巧です。
 ここから会津若松に戻り、郊外にある名所を巡りました。最初に向ったのが『中野竹子殉節碑』、彼女はここで西軍の銃弾に倒れ戦死しました。
続いて向ったのは『如来堂』、斉藤一を隊長とする会津新選組が西軍と死闘を繰り広げた場所です。
その後は『神指城跡』、1600年会津領主上杉景勝によって計画された未完の城。直江兼続の指揮のもと工事が進められましたが徳川家康の進軍によって中断し、二の丸跡に土塁が残るのみとなっています。
 この後市街地の方に戻り向かったのが『旧滝沢本陣』、ここは参勤交代や領内巡視の際の殿様の休息所ですが、戊辰戦争では藩主松平容保が指揮をとり、白虎隊も出陣しました。
弾や刀傷の跡が残っています。
 この日最後に訪れたのは『飯盛山』、長い階段を登ると(実は「スロープコンベア」を利用)『白虎隊十九士の墓』があります。
戊辰戦争で戦った16,7才の少年達が火に包まれた城下を望みながら若い命を散らしたのはあまりにも有名ですが、本当に世の無情を感じてしまいます。
十九士の墓の傍らには、松平容保公が詠まれたという「弔歌の碑」もあります。「幾人の 涙は石にそそぐとも その名は世々に 朽じとぞ思ふ」
帰りがてら『さざえ堂』という、上り下りがらせん状になっていて、同じところを通らないという珍しい仏堂にも入ってきました。
 ここから駅方面に戻りレンタカーを返した後、ホテル宿泊者に無料サービスでついている日帰り温泉に入った後、ホテルに戻りながら途中で夕食を食べて帰りました。歩数12,166歩でした。

本館:HARUのフォトギャラリーに撮った写真をアップしていますので是非お訪ね下さい。

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by hharu131 | 2013-06-29 23:59 | 2013風景